
2024.08.30
1971年6月5日、私たち京王プラザホテルは開業しました。
新宿駅西側の再開発地域に誕生した、日本初の超高層ホテル。
そのような私たち京王プラザホテルが目指し、「プラザ」と名付けられるもととなった「プラザ思想」が、どのように構想され実現されていったのか。
その歩みを振り返っていきたいと思います。
戦後まもなく、東京の街が西へと大きく発展を始め、戦後復興の一環として、新宿駅は乗降客数日本一の巨大ターミナル駅となるなど交通の要所となっており、新宿の街の利便性が注目されていました。
その中で、1960年(昭和35)年、東京都から「新宿副都心計画」が発表されます。それは、都心の人口と交通の過密化が懸念されており、都市機能の一部移転や、新時代のモデル都市を作ることを目的に、新宿駅西側を再開発し、淀橋浄水場の機能を移転させ、その跡地に新しいビジネス街をつくるという構想でした。
京王プラザホテルの歩みは、この「新宿副都心計画」とともにスタートしました。
「新宿副都心計画」発表から5年後の1965年の3月に淀橋浄水場の運営は正式に停止しました。折しも1964年の東京オリンピック以降、海外からの観光客が年々増加しており、大型ジェット旅客機の就航による大量輸送時代の到来によって、さらなる海外観光客の流入が予測されていました。
当時の東京の都心イメージは、丸の内、霞が関、銀座に代表されるものであり、帝国ホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニをはじめとするホテルも、山手線の内側にありました。そうした状況にあって、「将来、新宿は東京の玄関口であり、客間となってくる。大量の人々が国内外に出入りするようになり、それにふさわしい国際級のホテルが必要となる。また、すでにホテルは単に泊まるところではなくなって、あらゆる部門に使われている」と考え、新宿、それも山手線の外側でホテル事業を構想しました。
1968年初頭、「1,000室のホテル」構想が立案され、「副都心の扇の要」といえる土地を取得しました。
ホテル事情視察団が米国を訪問しました。米国では当時、多くの都市再開発を成功させていましたが、特に視察団が注目したのが、ロサンゼルスの中心街から20㎞も離れた再開発都市、センチュリーシティでした。
センチュリーシティの再開発の中心は、「センチュリープラザ・ホテル」が担っていました。そこは宿泊の場所としてだけではなく、食事や娯楽、ビジネス・ミーティングや各種パーティなど、様々な交流の場、すなわち広場として機能し、都市に動きと活気を生み出していました。
センチュリープラザやデンバーヒルトンのようなホテルを中心とした再開発をはじめ、ニューヨークのロックフェラープラザやモントリオールのヴィルマリー広場など、世界の大規模な都市再開発の中心には、必ず「広場=人びとが集まるコミュニケーションの場」がありました。
1969年、京王グループの新会社として、株式会社京王プラザホテルが設立されました。社名の「プラザ」には、この新しいホテルの役割が象徴されていました。
京王プラザホテルの基本理念として掲げられたのが、センチュリーシティをはじめ、世界の再開発都市を参考に構想した「プラザ思想」でした。
世界各地の都市再開発の成功事例に共通した特徴を「広場=プラザ」と捉え、都市化により失われつつあった「人と人との触れ合いの場」「自然との触れ合いの場」、そして「集いと出会いの場」を取り戻すために、新しい広場としてのホテルを創出するという宣言でもありました。
1970年に作成された資料には、京王プラザホテルの基本理念を以下のように提示しています。
そして「プラザ思想」の実現に向け、国際性、機能性、快適性(レジャー性)の3つの軸を定めました。
国際性では、国連方式に基づく6か国同時通訳装置を備えた3,000人収容の国際大会議場、国際的な商談の会議室として利用できる42室の中・小宴会場、国賓レベルの宿泊客が利用できる貴賓室(現在のインペリアルスイートルーム)などを計画しました。開業3~4年目には海外観光客の利用率が全体の70%~80%となることを想定し、各種の施設や設備も国際標準を意識して設計されました。
機能性では、ホテルが一つの街としての機能を備えるような空間計画のもと、エアラインセンター、ショッピングアーケードを3階ロビーに集めたほか、高速エレベーターなど最新の技術を導入し、利便性も高めました。
快適性(レジャー性)では、多彩な料飲店舗、超高層ビルの特性を活かした展望室、都心でレジャーを楽しめる屋上スカイプールなど、様々なエンターテインメント要素を充実させました。
東西南北を道路に囲まれている敷地の特性を活かし、「プラザ思想」を体現する開かれたアプローチ計画を採用しました。西側に正面玄関を、東側に宴会玄関を、そして北側にレストラン・バー入口、展望室入口、およびショッピング・アーケード入口を設けました。ロビーは、主に車による東西入口からの来館者のために、車道に面した3階に設定。北側入口は、新宿駅などからの徒歩による来館者が自由に出入りしやすいレストランフロア(2階)に配置されました。
「外の景観をインテリアとして取り入れる」ため、縦長で見通しの良いガラスを採用したが、同時に安全性向上のために、ボルトで強く固定せず遊びの部分を持たせて、地震の揺れをも吸収できるものとしました。こうした技術導入により、「全客室『一部屋一太陽』設計」というデザインテーマを具現化し、当時のホテルでは一般的だった腰高窓に対して膝高の広い窓を採用することによって、開放感を実現しました。
1971年6月5日、ついに京王プラザホテルがグランドオープンしました。京王プラザホテルの開業は、大きなニュースとなり、その様子は全国紙で、「超高層幕開け」「〈日本一〉オープン」といった見出しとともに大々的に報道されました。
施設の利用状況においても、予想を超える賑わいを見せました。23ある宴会場・会議室には多くの予約が入り、レストランやバー、喫茶などにも多彩な人びとが訪れました。2階のコーヒーハウス〈四季〉(後に〈樹林〉に改名)は、1日の利用客が2,000人を超える日もあり、若者たちの人気スポットになっていきました。
こうして京王プラザホテルは、「宿泊するためだけの場所」を超えて、街や社会に開かれた広場となり、「プラザ思想」を着実に形にし始めたのでした。
そして50余年、様々なお客様と出会い、時代とともに進化を遂げてきました。
これからもその歩みを止めることなく進み続けていきます。
創業時から脈々と受け継がれてきた私たちのDNAともいえる「PLAZA」に少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。
そしてぜひ、笑顔あふれる「プラザビト」に会いにきてください!